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ベーシスト  山下 弘治 さん  (その1)

日本で屈指のジャズ・ベーシスト山下弘治さんは、大卒2年目に、奥様とともに名古屋から所沢に移り住んで17年。地元の老舗ジャズバー・スワンで、いわゆるジャズ・マンというより、求道者(ぐどうしゃ)といったたたずまいの山下さんの音楽哲学に迫った。── by ゴマッジョ 【プロフィールはこちら】

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≫≫ 小学生のときから「ヘ音記号」 ≪≪

ゴマッジョ(以下、ゴマ) 名古屋大学理学部地球科学科卒の変わり種ベーシスト山下さんの、大学以降の歩みはホームページにありますが、ベースに出会うまでの音楽の道のりは?

山下 小学4~5年の担任が鼓笛隊の顧問をしていて、その関係で大太鼓やトランペットをやりました。その一方で、5年からは剣道場にも通ってました。6年のときに転校して、音楽からは少し離れました。
 中学校では剣道部に入ったんですが、部の雰囲気と合わなくて、すぐにやめました。そのとき、友だちから、ブラスバンドをやろうと誘われたんです。
 
ゴマ やはり音楽と縁があったわけですね。

山下 それでブラスバンドに入ると、チューバをやってくれと言われました。チューバはあまりなじみがないと思いますが、金管楽器の中では一番大きくて、最も低い音域の楽器です。やってみると、好きになった。
 高校でもチューバをやりたかったんですが、ブラスバンドはなくて音楽部に入部することに。部室に行くと、ピアノやドラムのセットと、トランペット、ベースなどがあってジャズのビッグバンドといったところ。やはり、管楽器がやりたくて、トロンボーンを吹くことになりました。
 高3のときにジャズのトロンボーンを聴きに、ライブハウス行きました。そこで会ったのがあとでお世話になる向井慈春さん。「僕もトロンボーンをやってます」と話して、握手をしてもらったのをいまでもよく覚えています。

ゴマ なかなか、ベースにはたどりつかないですね。

山下 それが、思わぬことがきっかけになったんです。
 大学の受験を終えた日に体調が悪くなって、すぐ入院してしまいました。肺気胸という、肺に穴があいて呼吸困難になる病気でした。
 大学でジャズ研に入りましたが、医者からは肺を使う管楽器は止められていたので、ウッドベースをやることになりました。
 考えてみると、小学校の大太鼓に始まって、低音域の楽器との付き合いが続いてきていますね。ヘ音記号が私の体に合っているんでしょうね。

ゴマ 大学在学中の早くから、プロのライブ活動を始められてますね。

山下 ピアノの納谷嘉彦さんのトリオとライブをやりました。地元では名の通ったトリオです。名古屋には東京から著名なミュージシャンがゲストでやって来て一緒に演奏しました。私も、五十嵐一生さんのグループとして東京でライブをするようになり、東京と名古屋を行ったり来たりするように。

ゴマ 大学にはちょっとゆっくりおられたようですね(笑い)。卒業して2年目の秋にこちらに来られてますが、その間の生活はどうされていたんですか? 

山下 それが…。妻のしのぶ(ジャズヴォーカル海老原しのぶ、ゴマ注)が専属歌手みたいにしていたジャズバーがあって、オーナーの松原さんはアルトサックスの奏者で、ジャズの勉強をさせてもらったりしていたんです。
 その松原さんが病気になられたり、私たちが結婚したこともあり、「店を手伝ってくれないか」と言われたんです。それで、お店の切り盛りをしながら、ライブがあると出かけてゆきました。店でもベースも弾いたりしました。

ゴマ ベーシスト兼雇われ店長というわけですね。

山下 で、しばらく続けていたんですが、そのうち、「このまま名古屋に居ていいんだろうか?」という葛藤が起きてきました。
 そこで、松原さんに相談に行ったんです。「せっかくのご好意でお店を手伝わせていただいていますが、やっぱり東京へ行きたいと思います」と。すると松原さんは、「そう言うだろうと思っていたよ」と、快く承知してくださいました。

ゴマ 所沢にはどうして住むことに?

山下 当時、月に1回は上京していて、そのたびに住宅の情報誌を買って、住むところを探しました。適当な家賃のところをと思って中央線沿線を見ると、八王子まで行ってしまう。これじゃ遠いな、と。
 たまたま買った情報誌に、いまのマンションが載っていた。所沢なら、妻も都心でライブをしても電車で帰れる。以来17年、ここの住民です。

ゴマ それは所沢にとってはハッピーだったですね。で、こちらでの生活の見通しはあったんですか?

山下 店を手伝っていたときの蓄えで、とうぶんの家賃は何とか払えるめどはありました。それと、東京には知り合いもけっこういました。
 名古屋時代からの付き合いの椎名豊さんや五十嵐一生さんのバンドは、当時、若手の中ではすごいバンドだと評判だったんです。で、あのバンドでやってる山下が出てくるというので、歓迎してもらいました。
 最初に向井さんのところに遊びに行って、「こちらに出てきました」と挨拶したら、その翌月から向井さんのバンドに…。

ゴマ いっしょにやろうと?

山下 そうそう。出てきてすぐに、向井バンドのベースになって、もう17年。明日も向井さんとのライブがあります。
 また、他の人のライブに遊びに行くと、「じゃー、今度よろしく」と言ってもらえる。そういった形で、いろんな人から背中を押してもらいました。

ゴマ 縁というか、出会いがあって、最初のころから仕事に恵まれたわけですね。
 もちろん、山下さんがそういう運を呼んだ。

山下 ラッキーだったと思います。その当時の流れもあったんですね。
 日本のジャズ界の動きで言うと、そのころは「ウィントン・マルサリス世代」と言われていますね。80年代まではフュージョンの時代だったのが、90年代にはまた、オーソドックスなジャズが脚光を浴びるようになりました。
 マルサリスはトランペッターですが、代表的なジャズミュージシャンであるとともに、クラシックでも有名で、両部門合わせて9つのグラミー賞を獲得しています。若いマルサリスが、スーツを着てネクタイを締めて、本当にストレートなフォービートのジャズを演奏して、それがすごく受けたんです。
 それにあわせて日本でも、椎名豊さんや大坂昌彦さんたちのやってるストレート・アヘッドな、アコースティクなフォービートのムーブメントが起きたんですね。それがだいたい、90年ころからです。

ゴマ 山下さんが東京に行きだしたころからですね。

山下 そうです、若手でフォービートをやるのがすごく流行って、クラブでもそういうミュージシャンをこぞって使って、いろいろとやらせてもらいました。そういう意味で、当時はいろんなチャンスを与えてもらったんです。

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≫≫ クラシックを知りジャズを知る ≪≪

ゴマ 順調なミュージシャン生活のスタートなわけですが、挫折というような経験は? 壁とかはなかったんですか?

山下 大きな転換点はありましたね。ずーとお世話になっていた椎名トリオを、30歳前になって辞めました。メンバーを換えるということがあって。

ゴマ 別に仲たがいしたわけじゃ?

山下 方向性の違いが出てきたと言えるかもしれませんね。
 23、4歳のころから椎名トリオでやってきましたが、ジャズというのがよくはわからないままに、「こういうベースを」と椎名さんから言われ、椎名さんのためにと一生懸命に弾いていました。
 でも30前になって、それまでやってきたことは決して嫌いなわけではないけれど、本当に自分がやりたいものはなんなのか、疑問が湧いたんですね。それで、それまで聴いてきたCDを全部もう一度聴き直しました。そして、自分はジャズのどこが好きで、いままでどういうふうに進んできて、これからどうしたいのか、自分に問い直しました。
 20代までは勢いや思い込みでやっても許されるけれど、30になってもそれでいいのかと、いろいろと模索しましたね。

ゴマ 一つの境目にさしかかったわけですね。

山下 自分自身を見つめなおす機会になりましたね。
 僕は音大に行ってないし、ジャズ理論とかも習ったことはない。ベースもちゃんと勉強したことはなくて、全部自己流でやってきた。これではやっぱりまずいんじゃないかと考えるようになりました。それで30を過ぎてから、クラシックの高西康夫先生について、基本から習うことにしました。

ゴマ 原点回帰ですね。それで変わりましたか?

山下 まったく変わりましたね。楽器の扱い方から、音の出し方から、すべてにおいて違いましたから。
 最初に高西先生には、「一応、ジャズのベーシストとして活動しています」と話しました。そして、「ジャズのベーシストに教えるということじゃなくて、普通のクラシックの生徒として、一から教えてください」とお願いしました。
 で、コントラバスを勉強してゆくうちに、ジャズという音楽が、数ある音楽のうちの一つなんだということを、改めて認識することができたんです。
 振り返ってみると、18でジャズ研に入って以来、ジャズ一辺倒だったわけです。朝起きるとジャズ、トイレに入って、車に乗ってジャズ、ジャズ喫茶やライブに行ってジャズを聴いて、自分もジャズを演奏して、寝る前にジャズ。12年間ずーっとジャズで、それが音楽のすべてだと思ってたんです。

ゴマ 音楽イコール、ジャズだった。

山下 それが、クラシック音楽を勉強して、「あっ、全然違う。ジャズというのは一つのジャンルでしかない」と、改めて教えられました。
 そのことで逆に、客観的にジャズと向き合うことができて、より深く理解できるようになりましたね。どっぷり浸かっていると、判断する物差しがない。突き放して見ることで、こういうのが本当のジャズなんだとわかってくる。それがすごくよかったと思います。

ゴマ そうすると、音楽や楽器との付き合い方も違ってくる?

山下 それもありますね。どんな楽器もそうでしょうけど、ウッドベースを扱うには技術が必要ですよね。ベースは16世紀から使われてきた楽器で、何百年もの間に、奏法とかが論理的に合理的に開発されてきています。
 それを勉強したことが、私がいま演奏するうえで、すごく力になっています。

ゴマ 新しいステップになったわけですね。

山下 ピアノの嶋津健一さんとの出会いも、私の音楽に大きな影響を与えましたね。30を過ぎたときに、嶋津さんとチェロとのトリオを組みました。
 嶋津さんの音楽はイマージュネーションが主体で、お手本があるわけじゃなく、感じたものを演奏するスタイル。僕はそれまでそういうのが苦手だったんです。
 僕は中学・高校と一生懸命に受験勉強をしました。しかも、僕がやってきたのは理科系で、必ず答えがある。でも、音楽っていうのは答えがないんです。

ゴマ 方程式があるわけでもない。

山下 それまでは、何かをお手本にしてそれっぽくやっていたんですね。情報処理に関しては得意だけれど、情報を生み出すことはしてこなかった。

ゴマ 音楽や文学、絵画はメッセージですよね。発信するもの。

山下 嶋津さんの音楽に出会って、自己表現の大切さを気づかされた。音楽は創造するものだ、自分が感じたものを音にして紡ぎだすものだと…。
 僕の音楽のポジションはすごく両極端にある。でも、自分が伝えたいことを音で表現する最終的な目標は同じだと思っています。そして、自分がやりたいことを自由にやって、同時に全体のハーモニーを壊さない。
 ハーモニーというのは音だけでなく、空気感であり、世界観でもあり、そのなかで好きなことをやる楽しみを知った。それで、ジャズがより面白くなりました。

ゴマ では後半は、ジャズの魅力を中心に、山下さんのアイデンティティにさらに迫りたいと思います。(2011.6.1取材)