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指揮者  米崎 栄和 さん (その2)

思い切って飛び込んだ指揮者への道。しかし、自身の音楽力の無さに気づかされ、改めて一からの勉強に。── byゴマッジョ(Photo : kenji Kuramoto)  【米崎さんの公式サイト】

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≫≫ 研究職との二足のワラジから ≪≪

ゴマ 大学の管弦楽団ではフルートを吹いて、で、指揮のほうは?

米崎 楽団の定期演奏会には、芸大の指揮科を出た常任指揮者が来られますが、普段の練習には学指揮(学生指揮者)が必要になります。
 私は3年生のときに学指揮をやりました。

ゴマ 学識が豊かで…。

米崎 いや、学識はあまりなかったです(笑い)。
 4年生のときだったか、自分の力を試したくて、民音の東京国際音楽コンクールの指揮の部に応募したことがあります。日本でやっている指揮のコンクールはそれしかなかったんです。しかし、書類審査ではねられました。
 落選のわけを知りたくて、その本選に出かけて、大胆にも大指揮者の大御所の先生に、「一般の大学生だから落ちたのですか」と尋ねたら、「いや、そうではなくて、今回は応募が多くて、音大できちんと指揮を勉強している人を優先した」と。
 そのときは緊張していて、「はい!」と帰ってきたんですが、考えてみたら、やはり一般学生だったからだと(笑い)。

ゴマ 大学院に進まれていますね。専攻は?

米崎 超伝導の研究です。夢の物質を探すというのに興味がありました。

ゴマ リニアモーターカーなどに応用されている研究ですね。
 院生だと研究が忙しくて、音楽にかける時間があまりないのでは?

米崎 まぁ、時間というのは作るものでして…な~んてえらそうなこと言ってますが、思ったよりも時間があったかな?(笑い)。
 NHKがいろいろな大学生を募集して作っていたオーケストラでフルートを吹いたり、理科大のオケの指揮をさせてもらったりしてました。
 また、仲間を集めて17名の弦楽アンサンブルを作って、そこで指揮をしていました。要するに自分が指揮をする場を作りたいから…(笑い)。
 でもその楽団が今では、フロイデ・シンフォニーオーケストラという立派なアマチュアオーケストラになって活動しています。私は、就職してからもそこで指揮をしていました。

ゴマ 指揮者への夢断ちがたく、サラリ-マンになってからも…。

米崎 大学の専門を活かして貴金属関係のメーカーに就職したんですが、いわば、二足のワラジ状態でした。
 仕事が終って帰ってから勉強して、休日にはアマチュアオーケストラの指揮をしたり、たまに平日も新宿の市民オペラの常任指揮者のアシスタントとして副指揮をしたりしていました。 
 
ゴマ それが、転機はいつ?

米崎 就職して数年が経って、30歳になったときです。
 どうしても指揮者になりたいという気持ちが捨てきれなくて、今を逃してはもうダメだなと、思い切って1999年に会社を辞めました。

ゴマ で、ご両親は?

米崎 もちろん、大反対です。周りのみんなにも止められました。
 給料は無くなるし、指揮者になれる確率なんてほとんどゼロに近い、と。
 それこそ、人生を棒に振る指揮者…(笑い)

ゴマ しかし、30にして立つ、と。

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≫≫ 「指揮者になれる確率はゼロ」と言われ ≪≪

米崎 会社を辞めたはいいのですが、それまで棒の振り方はそれなりに勉強はしてきたものの、指揮者になるための勉強の仕方はまるでわからなかった。
 そこで、友達が習っていた湯浅勇治先生の門をたたいたんです。湯浅先生はウィーン国立音楽大学で教えておられて、年に2、3回ほど日本に帰られてレッスンをされているんです。
 お会いするとすぐ、私の中身の無さを見抜かれました。厳しい先生でしたよ、恩師ですけど。
 先生からいきなり、「明日までに、シューベルトの未完成交響曲の第3楽章を完成させてくるように」と言われました。
 交響曲は通常4つの楽章から構成されていますが、シューベルトの第7交響曲は、第2楽章までしかなく、第3楽章は9小節目までが総譜にされ、残りはピアノスケッチのみで、だから「未完成」。
 それを和音をちゃんとつけて完成するようにとのことです。
 で、家に帰ってピアノに向かったものの、だいたいまともに和音の勉強などしたことがない。思い浮かぶのは、ドミソやドファラとかシレソなどの簡単な和音ばかりで、悪戦苦闘しました。

ゴマ それでも、何とか完成させた…。

米崎 次の日のレッスンのとき、先生の指導を受けている大勢の生徒の前でピアノを弾かされました。するとみんなもう、笑いをこらえて…(笑い)。
 そのとき、自分が何も勉強していないことを思い知らされました。
 湯浅先生からは、「お前が指揮者になれる確率はゼロ%だ」と。そのあと、飲み会があったんですが、「先生、せめて3%くらいは…」と(笑い)。

ゴマ 先生は、諦めさせようと思ったのか、それでも付いてくるかと、覚悟を試されたのか。

米崎 いやー、本当にゼロだったのかもしれない。
 だいたい、指揮者になろうなんていう人間は、我が強くてうぬぼれがあって、自分には才能があると思いこんでるのばかり。

ゴマ また、そうでないと音楽家にはなれない。

米崎 しかしそのとき、自分には何にもないのがわかったんです。棒を振ることはできても、音楽自体の基本的なこと、音楽性というものが何も身についていないことに気づかされました。
 作曲家が書いた楽譜を活きた音楽にするための音楽力がないと、指揮者にはなれないんだと。
 そこで、基本的な勉強を一からやり直そうと、ピアノの先生を探し、和声の先生を探して、聴音や採譜の勉強をしたり、1年間はとにかく他にはどこにも出かけずに個人レッスンを受けました。

ゴマ 「こけの一心」とも言えば失礼になりますが。

米崎 習った先生はみな東京音大で教えておられる方たちでした。
 運が良いことに、東京音大には指揮科の聴講生という制度があって、友人の紹介で紙谷一衛先生に推薦状を書いていただいて1年間勉強しました、
 そして、2001年に研究生の試験を受けて、何とか合格しました。通常は大学の指揮科で4年間学んだ者しか入れないんですが、まあお情けで…。30歳からの勉強で、1年で大学の4年分をこなすのはしんどいところがありましたね。結局、聴講生で1年、研究生で2年の計3年間、東京音大に通いました。
 師事したのは、紙谷先生、湯浅先生のほか、汐澤安彦先生、ヴェリサー・ゲンチェフ先生、広上淳一先生たちです。

ゴマ 粉骨砕身の3年間でしたね。「石の上にも三年」と言えばありきたりになりますが…。情熱と努力に頭が下がります。

米崎 東京音大を出たときはもう34歳になっていました。

ゴマ いよいよ、指揮者・米崎栄和のスタートですね。
 では続いて、さらなる邁進振りをお聞きしたいと思います。(2016.5.30取材)