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この人

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指揮者  米崎 栄和 さん (その1)

川越高校から東京理科大に進み、大学院修了後はメーカーに就職したものの、指揮者になる夢を叶えようと30歳で退職。
34歳で初めての国際コンクールに挑戦し、最高位を受賞して注目を集めました。
その長年の刻苦の道をお聞きしました。── byゴマッジョ(Photo : kenji Kuramoto) 【米崎さんの公式サイト】

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≫≫ カラヤンの指揮棒第1号を作成 ≪≪

ゴマッジョ(以下、ゴマ) 所沢在住が長いようですが、大阪のご出身とうかがいました。むこうにはいつまで?

米崎 両親が二人とも大阪で、私は吹田市の生まれで、5歳までいました。阪急電車沿線の「関大前」という駅の近くで、小さい頃はよく電車を見に行ったものです。阪急電車が好きで…、運転手になりたかった。
 メーカーのエンジニアをしていた父が飯能の工場に転勤して、家族で所沢に引っ越してきました。

ゴマ で、小学校から所沢で、高校は川越高校ですね。所沢市民吹奏楽団の指揮をしておられる吉田謙治さんの吹奏楽部の後輩だとか。
 お二人とも、フルートを吹いておられたとお聞きしています。

米崎 そうです。吉田さんとは4年違いで、かぶってはいないんです。
 フルートは高校から始めました。

ゴマ 音楽との出会いはいつからですか。

米崎 姉が二人いて、どちらもピアノをやっていたんです。で、小学校1年のときに、無理やりピアノの先生のところに連れていかれて…。
 最初は例によってバイエルから始めたんですが、1年で止めちゃったんです。あまり言いたくはないんですが、ピアノの先生が恐くて、よくレッスンで「シゲカズくん、どうしてわかんないの!」と叱られて、泣いたことがありました。すると「泣いてもわかんないじゃないの!」と。
 1回だけ発表会で2曲弾いたんですが、1年経って「ピアノ、やだ!」となって。いま思えばもったいないことしたな、と思いますけど。
 
 そのあと地元の少年野球チームに入って、野球少年だったんですが、音楽は好きでしたね。その頃は、とても歌謡曲が流行っていました。
 2年生のときにピンク・レディーがデビューして、大人気に。それで、給食のときに、牛乳瓶をマイクにして、友だちと二人で唄ったり。
 翌年には沢田研二が「勝手にしやがれ」でレコード大賞に。大ファンでした。「壁際で寝返りうって…」と、帽子を投げながら唄っていました。
 4年生のときだったか、「創意工夫」というテーマで、自分で作ったものを発表するという授業参観があったんです。私はマイクを作って、親たちの前で「勝手にしやがれ」を唄ったことがありました。

ゴマ 関西でいうところの「いちびり」…(笑い)。野球少年兼音楽少年。

米崎 小学5年生の頃にうちにあったレコードで、ウィルヘルム・ケンプという名ピアニストのモーツァルトのピアノソナタを聴いたんです。
 ケンプといえばベートーヴェンが定番ですが、うちにあったのはモーツァルト。それを聴いて、なんでかえらく感銘を受けたんです。そして、また、ピアノを弾きたくなりました。
 姉がピアノをやっているから、うちにはいろんな楽譜があったので、またピアノの練習を始めました。親に頼んで今度は優しい先生(笑い)について習い、野球部が忙しくなるまで3年間ほど、割とちゃんと練習していました。

ゴマ やはり音楽とは縁があったと。

米崎 そうそう、肝心なことを言い忘れていました。
 中学2年生の頃、たまたまテレビでヘルベルト・フォン・カラヤン指揮のブラームスの交響曲第1番を聴いたんです。
 カラヤンが指揮している姿は今までにない、大きな衝撃でした。以来、カラヤンに病みつきになってしまったんです。
 それで、まずマネから入ろうと思ったんです。カラヤンがよく着ていたタートルネックのセーターを、姉に頼んで誕生日に買ってもらったり、楽譜も読めないのに、オーケストラのスコア、ベートーヴェンの「運命」や「第九」のミニチュア・スコアを買ったりとか。
 カラヤンのビデオを何度も何度も見て、その手振り身振りをマネしようと。それには、指揮棒がいる。だけど、どこで売ってるのかわからない。これは自分で作るしかない。で、家の中を探してみると、台所に菜箸があった。
 あれの紐のところをちょこんと切って、持つところにはワインのコルクをくり貫いて付けて、形もカラヤンの丸みをおびたのを模して…。カラヤン指揮棒第1号が完成(笑い)。今でも押入れの中にあります。
 
ゴマ その指揮棒でカラヤンのマネを。

米崎 ビデオを見て振り方の格好を覚えました。こう、目をつむって…。
 そういえば、中3のときに校内で合唱コンクールがありまして、指揮者をやりたいと言ってOKしてもらいました。

ゴマ 作法はどうやって?

米崎 もちろん、カラヤンのものまねですよ。
 ステージに立って指揮棒を振り始めると、ドッと笑いがきました。野球部の連中は驚いてました。私がそんなことをするなんて知らないから、「あの野球部のヨネが!」って。11クラスあった対抗戦で優勝しちゃいました。

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≫≫ 親の大反対で一般大学へ ≪≪

ゴマ 中学校で指揮の初舞台を踏み、高校では吹奏楽部でフルートを始められて…。高校では指揮する機会はあったんですか。

米崎 それが…。当時の吹奏楽部の顧問を、今は所沢西高校におられる室伏正隆先生がやっておられたんです。あの先生は東京芸術大学の作曲科の出で、音楽的にすごい方なんですね。
 高3のときでしたが、室伏先生から呼ばれて、「ヨネ、学生指揮者をやってみないか」と言われたんです。たぶん、私が指揮をするのが好きだというのを知っておられたんじゃないかと思います。
 その頃は吹奏楽では、1部と3部がクラシックのステージで、2部はポピュラー。その2部のステージで指揮をさせてもらいました。
 また、あるとき、先生から、「音楽家の道に進んでみないかと」と言われたことがあったんです。で、東京芸大に行かないかと。1年間浪人すればなんとかなると言われて、その気になっちゃったんですね。
 両親は大反対です。音楽で食っていくなんてのはまず無理だ、と。そしてオヤジに、「音楽の道に行くんだった、家を出て行け」と言われて、そんな勇気もなくて、「いや、お願いですから置いてください」という感じで…(笑い)。
 それで一般大学へ進むと決めたんですが、モヤモヤした中途半端な気持ちで受験したんじゃ、合格するわけがない。受けた大学を全部落ちました。

ゴマ 東京芸大は受けなかったんですね。

米崎 ええ。浪人中もやはり、指揮者になりたいと口にしていましたが、両親はもちろん大反対。
 母から、「大学に入ってから、やはり指揮の勉強をしたいんだったら、自分で先生を探してやるのなら」と言われ、じゃあということで受験して、なんとか東京理科大学に引っかかりました。

ゴマ 大学での専攻は?

米崎 理学部の応用物理学科に入りました。

ゴマ で、指揮の勉強は?

米崎 まずは理科大の管弦楽団に所属して、フルートを吹いてました。
 そして、指揮の勉強をと思ったんですが、どうやって先生を見つけたらいいかわからない。たまたま高校の友だちで指揮の勉強をしているのがいて、桐朋学園大学の先生を教えてもらったんです。
 そこで、厚かましくもその先生に電話をしたんです。「一般の大学の学生なんですが、指揮の勉強をしたいので、教えていただけますか」と。
 そしたら、「米崎君、音楽理論の和声、それの偽終止(ギシュウシ)って知ってるか?」と訊かれたんです。和音の基礎知識らしいんですが、「はっ?」。
 「キミ、偽終止のことも知らないで指揮者になりたいと思ってるの?」。「キミみたいのは掃いて捨てるほどいるけど」と厳しいことを言われました。
 だけど、なんとか指揮の勉強がしたいんだと、一生懸命に訴えて、その話の中で、私が所沢に住んでいると話したら、「それじゃあ」と、武蔵野音楽大学で教えておられる長瀬清正先生を紹介していただきました。
 それですぐ長瀬先生に会いに行って指導をお願いしましたら、「まず、学生生活を経験して、それでもほんとうに指揮の勉強をしたいのなら、もう一度電話をするように」と言われました。
 で、1か月くらい経って、「やっぱり、指揮を習いたい」とお願いして、指導を受けるようになりました。

ゴマ 私はもともと、指揮の勉強というのはどういうふうにするのかなと、興味があったんですね。楽器だとわかるじゃないですか、ピアノを弾いたり、ギターを弾いたり…。

米崎 本格的に指揮の勉強をするには、桐朋学園の創始者である齋藤秀雄先生の書かれた「指揮法教程」というバイブル的な本があるんです。いわゆる「斉藤メソッド」と言われるものです。
 その齋藤メソッドを一から徹底的に勉強しました。

ゴマ 有名な方ですね。小澤征爾さんの先生で、「サイトウ・キネン・フェステイバル 松本」が開かれていましたね。

米崎 斎藤先生の門下生が始めたフェスティバルです。その筆頭が小澤さんで、今は「セイジ・オザワ 松本フェスティバル」という名称になってます。
 そもそも日本には指揮法の教科書はなかったんですね。
 齋藤先生はもともとはチェロ奏者ですが、NHK交響楽団の前身である新交響楽団では指揮者としても活動されていました。その楽団の招きで来日したローゼンシュトックの指揮振りが非常に明快で感銘を受けたそうです。
 齋藤先生のお父さんは高名な英語学者で、先生自身も分析することが得意だったことから、ローゼンシュトックの指導法をもとにして、指揮の教科書を作られ、日本の指揮教育の基礎を築かれたんです。
 もっとも、もともとは指揮者というのはいなかった。指揮者の専門職化が進んだのは19世紀後半になってからなんです。

ゴマ じゃあ、古くはコンサートマスターがリードしたりとか。

米崎 そうです。ベートーヴェンの交響曲などオーケストラの規模が大きくなってくると、自分たちだけでは合わせづらくなって、そういう必然性から指揮者が生まれたんですね。 

ゴマ では少し休憩をして、大学生活から指揮者になるまでお話に移りたいと想います。(2016.5.30取材)