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特集

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ジャズハウス・スワン 50周年 (その4)

スワンの50年の間には、多くの若いアルバイトの人たちがお店を手伝っていたそうです。その中のお一人の荒木章さんは、大学生の時に所沢の三角スワンでアルバイトをしたあと、社会人になってから今に至るまで、公私ともにスワンをサポートしてこられました。
3回連載の予定だった特集の、第4弾です。 (文=ゴマッジョ)

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■◆● 中止になった年越しライヴ ●◆■

ゴマ 荒木さんのスワンとのお付き合いは30年以上にわたるとお聞きしていますが、ご縁はいつごろからですか?

荒木 スワンという店があるのは子どものころから知っていました。
 そのころ、店にいた客が学生運動の内ゲバで死亡した事件があったりして、なんとなく近づきにくい感じのお店でした。
 行くようになったのは、高校生のときからですね。

ゴマ やはり音楽への興味で?

荒木 ええ、私は高校(註:川越高校)ではブラスバンド部に入っていました。当時、熱心な先生が指導していて、吹奏楽コンクールの県大会では金賞常連校として活躍していました。私は、先輩から譲ってもらったトロンボーンを吹いていました。
 スワンに行きだしたのは、写譜をするためでした。オーケストラ用の交響曲や協奏曲をブラスバンド用にアレンジして演奏したりしていたので、チェロパートなどをトロンボーン用にするためスコアから写しに、スワンの2階に行くようになりました。

ゴマ この前に取材した小林さんのお話では、三角スワンの2階ではみんな腕を組んで黙ーって聴いていたとか。

荒木 だから、写譜にはちょうどよかったんですよ、集中出来るので(笑い)。

ゴマ アルバイトを始められたのは?

荒木 大学に入ってからですね。先にバイトをしていた同学年の奥田さんから、「一緒に交替でバイトやらない?」と誘われて始めました。
 バイトは代々そういう順繰りの形でしたね。続けるのが難しくなると、次の誰かを誘って…。私も、今は市役所にいるU君に引き継いでもらいました。U君も又、高校の同期などを誘っていましたね。私がやっていたのは、三角スワンがなくなる前の2年間くらいです。

ゴマ アルバイトは2階の担当で?

荒木 そうです。当時2階の営業は午後の2時から夜の12時まで。
 レコードはずーっとかけっぱなしでだいたい1日、30枚くらいはかけていましたね。CDは無い時代で、アナログレコードの片面をかけます。
 選曲はまかされていたので、自分の好きなものを中心に、聴いたことのないアルバムを織り交ぜながらという感じです。ジャズ好きなお客が聴きにきているわけですから、バイトとはいえ選曲は必死です。いわゆる名盤ばかりかけていては沽券に関わる(笑)みたいなこともありますし、トリオ→カルテット→ボーカル→フリー…とか、選曲はけっこう気をつかいました。
 もちろん、お客さんからのリクエストを受けることもあります。お客さんによっては、アルバムのリストから選ぶ人もいれば、アーティスト名とアルバムタイトルでリクエストする人もいます。アルバムタイトルのリクエストにすぐに対応して、探し出すテクニックもバイトの腕の見せ所でした。
 ちなみに当時のリストは、分厚いルーズリーフに手書きのものを書き足していくというものでした。今、お店にあるリストは三角スワンのあと駅前時代のバイトで中尾君という人が、全てのアルバムを調べ直してタイプライターで作成したものです。

ゴマ アルバイトをしていたころのエピソードなんかは?

荒木 ええ、よく覚えていることが2つありますね。
 お店の1階には、小さいスピーカーがあって2階でかけるレコードをBGM的に流していました。夜になるとスピーカーを切ってジュークBOXに切り替えるのですが、そのまま2階のレコードを流し続けることがあります。多分、1Fの客さんの趣向に合わせていたのでしょう。2階にお客が誰もいないと自分の興味で、好きなものや聴いたことのないアルバムをかけることが多くなり、たとえば、フリージャズを続けてかけていると「下で飲んでいる人のことも考えてもっと、オスカーピーターソンとかかけてよ。」と言われました。2階では1階の状況までわからなかったのです(笑)。

 もう1つはライヴのときのことです。スワンでは例年、大晦日にライヴをやっていました。2階は早く締めて、1階でやりました。
 その年はドラムの中村達也のバンドが出ていたんですが、達也さんが酔っぱらって、演奏がかなりデタラメな調子になってしまったのです。そうするとマスターが怒り出して、「もういい! 演奏はするな。今日は終わり!」と怒鳴って、ライヴは中止になってしまいました。
 店の中はシーンとなって白けてしまい、帰った人もいましたが残った人は黙ったままで…。
 それで、その状況をなんとかしないとと思い、2階に上がって電気を点けてレコードをかけて、常連のお客さんに2階に来てもらいました。
 
ゴマ 気のまわるアルバイトですね。

荒木 そうすると、マスターが2階に上がってきて、「なにしてるんだ! 2階はもう終わりだ、電気を消して降りてこい!」と叱られました。
 しかし、マスターはそう言ったまま降りていって、そのあと何も言ってきませんでした。

ゴマ みんなの手前、荒木さんを叱ったものの、客のために気を利かしたことを嬉しく思ったんでしょうね。

荒木 そのことを話したことはありませんが、ちゃんと理解してくれていたのだと思います。

ゴマ 三角ビルが無くなるころの思い出などは?

荒木 今のスワンにも架かっていますが、大きなマリリン・モンローの写真。あれは2階に上がる階段の途中に飾ってあったんです。
 友人であの写真をとても気に入ってるのがいて、店が引っ越すときに譲ってもらおうと思ったようですが、言い出せなかったみたいです(笑い)。
(註:左の2枚目の写真=マリリン・モンロー。由来は不詳)

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■◆● 成長するスワンに期待 ●◆■

ゴマ アルバイトを辞めたあとも、お客として以外にもお付き合いが。

荒木 大学を出て、税理事務所に入りました。そして勤めながら、税理士の資格を取ろうと勉強をしていました。
 スワンは新所沢に移る前に、所沢の駅前のパチンコ屋の2階に、ジャズ喫茶と、サンサーンスというレストランをやっていたことがあります。
 そして、移るときに「サンサーンス」を社名に有限会社にしたのです。それで私に、「経理を手伝ってくれないか」とお声がかかり、以来、私が独立して税理士事務所をもったあともずっと、経理と税務のお手伝いをしています。

ゴマ 経理事務については先代ママとのやり取りが多かったと思いますが、そのママの思い出は?

荒木 やはり、亡くなったときのことが忘れられないですね。
 亡くなる前の日に、経理のことでママと電話で話をしたんです。まったく、普段と変わらない様子でした。
 そうしたら翌日、マスターから、「ママが亡くなった」と電話が…。とても信じられなかったですね。

ゴマ マスターはずいぶんガックリきたとお聞きしています。

荒木 ええ、そのころはよく、「ずっと一緒にいるとついケンカになるから」と、マスターは、別にやっていた古本屋に行くことが多かったんです。
 その日もマスターが先に古本屋に出かけ、ママは身支度をしてスワンに出かける前に亡くなったそうです。
 マスターは、そのときに居なかったことがとても悔やまれたようですね。

ゴマ 麻季さんはパリに留学中でしたね。

荒木 急いで日本に帰ってきた麻季ちゃんが、ママにすがり付いて大声で泣いていたのをよく覚えています。

 とても印象的だったのは、ママの葬儀のときのことです。式の間、ママのとても好きだったビル・エヴァンスの曲がかけられていました。
 そして、最後に棺を送り出すときに、エヴァンスのワルツ・フォー・デビイ(Waltz for Debby)が流れました。忘れられない光景です。

ゴマ ママは絵が上手だったのは有名ですね。よく耳にします。麻季さんがデザイナーを志したのも、その血を受け継いでいるんですかね。

荒木 この事務所に架かっているのは、ママの「わらべうた」という絵です。
 ママが亡くなられたあと、マスターから「1枚もらってくれないか」と言われ、壁のスペースに合わせて、あの絵を選んでもらいました。
(註:右の2枚目の写真)

ゴマ とても温かみのある絵ですね。色使いが特徴的です。

荒木 小林さんの記事にもありましたが、ママの絵をCDのジャケットに使っているのは他にもありますよ。
(註:右の3枚目の写真。TOMOKI TAKAHASHI QUARTET Featuring FUMIO WATABABE「MAKE SOMEONE HAPPY」)

ゴマ ママの絵は、スワンに来るミュージシャンのお気に入りだったんですね。とても雰囲気がありますよね。音が聴こえてくるようです。

荒木 ちょっと話はそれますが、奥泉光さんという芥川賞作家の「その言葉を」(集英社文庫)という小説を読んでいて、「あれ、もしかしたらこれは、スワンが舞台なのでは」と思ったことがあります。
 奥泉さんは、高校の先輩で所沢に住んでいた方だったので、もしかしたらスワンと接点があるかもと思ったのです。それで、マスターに聞いてみると、「うん、うちに来てたよ」ということで、「やはりそうだったのか」と。ご本人に確認はしていませんが(笑い)。
(註:「ユリイカ」詩と批評2の2007年2月1日発行・通巻531号の特集「戦後日本のジャズ文化」に、奥泉光とマイク・モラスキーの対談「まず音を出してみろ!」があり、奥泉光は自身の小説「川辺のザムザ」に出てくる「キャノンボール」というジャズ喫茶は、所沢にあるSWANという店をイメージして書いている、と発言している。他にもSWANを舞台にした小説があるかもしれない)

ゴマ スワンにはいろんな方たちが来ていたんですね。歴史を感じます。
 今年、スワンは50周年を迎え、2代目マスターの須藤義雄さんは14年目、2代目ママの麻季さんは20年目となりました。
 改めて、この半世紀を節目として、これからのスワンについて、公私ともに関わってこられた荒木さんのお考えなどをお聞かせいただければ。

荒木 これまでは、お二人とも古くからのお客さんやミュージシャンに支えられてきた面があると思います。
 これからは、スワンの新しい歴史を築いてゆくために、新しいお客さんをどんどん開拓してゆくとともに、若いミュージシャンの発掘や育成などにも力を注いでいってもらえたらと思っています。
 新たに成長してゆくスワンに期待しています。

ゴマ 私どもは、所沢を「音楽のまち」として盛り上げて、その魅力を多くの人たちに知ってもらおうと活動しています。
 その中にあって、スワンは核となるお店です。微力ながら、側面からでも応援してゆきたいと思っています。
 本日はありがとうございました。(2015.4.18取材)
 【スワンのサイトはこちら】