所沢の音楽情報・タウン情報 ptoko(ピートコ).JP

Share |
  • ptokoについて
  • お問い合わせ

特集

特集1上.jpg

ジャズハウス・スワン 50周年 (その2)

2代目のマスター須藤義雄さんに続いて、2代目のママ須藤麻季(すとうまき)さんに、ご両親のお話やスワンについての思いなどをお聞きしました。 (文=ゴマッジョ)

特集2の左.jpg

■◆● ハード系とヴォーカル好きの先代 ●◆■

ゴマッジョ(以下、ゴマ) スワンについて、小さい頃の思い出を。聞いた話などからでも。お店の名前はどなたが付けたんですか?

麻季 母方のひいおじいちゃんが付けたんです。
 「ン」が付くと「運」が付くからと。
 それと、「これからジャズ喫茶になる」というときに、最初にかけた曲が、「アート・アンサンブル・オブ・シカゴ」だったそうです。

ゴマ お店はおばあさんが先代ママのために用意したとか?

麻季 最初の頃は、おばあちゃんとママでお店をやっていたんですけど、父が入ってからは、おばあちゃんは二人に任せるようになったんです。
 そして、お店に遊びに来ては、「私もリクエストしていい?」と言って、好きな曲を聴いていました。

ゴマ 最初は純喫茶だったのが、ジャズを聴く店に変わったそうですが、ママはジャズが好きだったんですか?

麻季 すごい好きでしたね。とくにヴォーカルが。とても詳しかったです。
 マスターはインストが好きで、コルトレーンとかちょっとハード系のレコードを20枚ほども買ってくると、「お前がエラがないと言うから、気を遣ったんだ」と、必ずヴォーカルものが入っていました。
 ママは、いわゆる,3大ヴォーカルのエラ、サラ、カーメン (エラ・フィッツジェラルド、サラ・ボーン、カーメン・マクレエ) などの黒人ヴォーカルが、好きでした。 マスターは、ジュリー・ロンドン、クリス・コナーとか、 白人のヴォーカルが好きでしたね。

ゴマ マスターについての思い出は?

麻季 私の小さい頃は、マスターは貿易会社に勤めていて、朝早くから東京の税関に出かけ、夜に帰ってから店の手伝いをしていて、かなりハードな生活をしていましたね。

ゴマ 一時、マスターの仕事の都合で大阪で住まれこともあるとか。

麻季 ええ、1970年過ぎくらいでしたか、店は前からいたバイトさんに任せて一家で行きました。だけどママが、周りが大阪弁で、何もしない専業主婦の生活が合わなくて、1年ほどで逃げるようにして帰ってきました。

ゴマ 所沢にあった頃は、基地の米兵もよく店に来ていたようですね。

麻季 ええ、そうですね。父は英語はそんなに堪能とは思えませんけど、けっこうノリでワーッとやる人だったんで、話が盛り上がったようです。
 また、しょっちゅう基地の中の将校用のクラブに呼ばれたようです。将校たちもジャズの話などができるのが嬉しかったみたいです。この春、復刻される本「おれたちのジャズ狂青春記」(ぱる出版)にも 詳しく載っています。

ゴマ マスターはお店の客とはジャズの話はよくされたんですか?

麻季 散々してましたね。してたんですけど、意見が合わないといつも最後には怒り出すんですよ。「もう、聴かせない!」って。
 すごい短気だったんです。どこで火が付くかわかんないくらい。

ゴマ 麻季さんはマスターからジャズ談義を聞かされたことは?

麻季 よくありましたよ。たとえば、「コルトレーンのアルバムでは、ヴィレッジ・ヴァンガードが一番いい」とか。
 それと、私がパリに居たときには、「こういうのを聴け」って、月に3、4本もテープを送ってきてたんです。
 弟にはハード系のものをガンガン聴かせていたんですが、私には、「可愛いものを聴け」って、ビル・エヴァンスなんかを聴かされました。そればっかりではつまんなくなって、いろんなものを聴いていましたけど。

ゴマ 所沢から新所沢に移ったのいつですか?

麻季 1985年です。前の店は西武の車両工場の脇の三角地帯にあったんですが、そこのところの道路を広げるということで、立ち退くことになったんです。
 ワルツに入るかという話もあったんですが、ジャズの店は夜遅くまでやるものだから、ビルではできないと、こちらに移ることになりました。
 ただすぐには移らないで、しばらく所沢駅前に仮店舗を出して、またその隣りに、「サンサーンス」というフランス料理の店もやりました。なかなかおいしかったんですよ。それを両方とも引き払って、新所沢に来ました。

特集2の右.jpg

■◆● ジャズのまち・所沢のシンボル ●◆■

ゴマ マスターはいろんなことに手を出されたんですね。

麻季 ええ、こちらの店に移ってからも、根岸の交差点の近くで、「銀蔵絵本」という古本屋と、その2階にギャラリーもやってました。ママが亡くなってから1年くらいまで、3年ほどはやってました。

ゴマ ママが亡くなられたのは、麻季さんがパリにおられたときとか。

麻季 はい、1996年です。私がパリに行ったのは89年。ママが亡くなってからは、日本と行ったり来たりしていましたが、99年に永住帰国しました。

ゴマ ママの訃報は、新聞でずいぶん話題になったそうですね。

麻季 そうですね。朝日新聞と確か東京新聞も全国版で取り上げてもらって、その他多くの新聞の埼玉版に載りました。そして、音楽雑誌にも。
 告別式には800人くらいの方に来ていただきました。

ゴマ お別れコンサートもとても盛大だったとか。

麻季 ママが亡くなったのが4月で、その年の8月に、お世話してくださる方がいて、新しく出来たミューズのキューブホールで開いていただきました。
 一流のミュージシャンの方たちが出演したこともあって、300人くらいが定員のホールに500人ほども来て、消防署から外に出るように注意されました。
 出演者の中には、高橋知己(Ts)さんや 中村誠一(Ts)さんもおられましたね。 高橋さんは今もスワンに出ていただいていますし、 中村さんは最初のホスト・サックス奏者でした。
  後日、スワンで追悼ライブをやっていただいた、 最初のハウス・ピアニスト本田竹広さんは、 今ではもう亡くなっていらっしゃいますが、 奥さんのチコ本田(Vo)さん、息子さんの本田珠也(Ds)さんには、 ときどきライヴをしていただいています。

ゴマ ところで実は、私が初めてスワンに来たのは、マスターのお別れ会の前の日の夜だったです。あのときのお客さんの表情を今もよく覚えています。

麻季 マスターは2007年の1月に亡くなって、2月4日にスワンでお別れ会をやりました。昼過ぎから夜中まで、たくさんのミュージシャンの方たちが入れ替わり立ち代り、セッション形式で演奏していただきました。
 マスターのときも、ずいぶん新聞などで取り上げられました。

ゴマ スワンは今年で50周年を迎えますが、改めて感じられることは?

麻季 「50周年てすごいね」と言われるんですけど、私はそのうちの20年くらいなんですよ。しかも、子どもができてからはあまり手伝えなくなったし。
 この間、古いアルバムを見ていたら、20年から18年くらい前のライヴの写真があって、「あっ、この人、若い!」って(笑い)。

ゴマ 当然ですよね。二昔も前(笑い)。

麻季 あー、スワンは店をずうっと続けてきて、この人もミュージシャンとして続けてきてすごいなーと…。

ゴマ 若いときから来てて、スワンで育って一流ミュージシャンになって。

麻季 一流になって、以前ほどはスワンに出てくれなくなって…。でもそれは、嬉しいことでもあって。

ゴマ 先日、2代目マスターとお話をしてて、「ジャズフェスティバルもやってみたい」とお聞きしたんですが。

麻季 それもいいですね。それと、50周年を記念してパーティーをするのもいいかなと思ってます。歴代のバイトさんに集まってもらって、ライヴとセッション形式のパーティーができたらと。でも、うまく連絡が付くかどうか。

ゴマ 最後に、所沢市民に一言。

麻季 スワンには、都内に行かなくても聴けるビッグなミュージシャンが数多く出演しています。ホームページなどを見て、市外から来てくださるお客さんがおられますが、市内の方たちにはまだそんなに知られていないようです。
 ぜひ、足をお運びいただければと思います。

ゴマ 私どもは、所沢を「音楽の街」として盛り上げようと、このサイトを運営しています。スワンは、そのシンボル的なお店です。これからも、音楽フアンのためによろしくお願いします。
 本日はありがとうございました。(2015.2.7取材)
 【スワンのサイトはこちら】
 【エッセイ「私と音楽」】